The blog of Kyotrain

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群馬県の南東部にある大泉町。
ここは人口4万人のうち2割が外国人であり,その7割ほどをブラジルなど南米系の占めるインターナショナルな町です。
ずっと行きたかったブラジリアンタウンをようやく訪ねることができたので,記事にしたいと思います。
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町の玄関口は東武小泉線の終着,西小泉駅。
この黄色と緑色が鮮やかな駅舎は,ブラジルの国旗をモチーフにしているんでしょうか。
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駅名は怒涛の6ヶ国語表記。
Estaçãoがポルトガル語,Estaciónがスペイン語かな。ポルトガル語圏であるブラジル,スペイン語圏であるボリビアやペルーからの移住人口の多さを反映しています。
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まず訪ねたのはブラジリアンプラザ。
ここにはかつてショッピングモールがあったようですが,現在は貸しパーティースペースや外国人向け不動産屋などが入居しています。
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そして一角にあるのが観光協会と「日本定住資料館」と銘打った小さな展示室。
日曜日だったので観光協会は閉まっていましたが,優しいおばちゃんが迎えてくれました。
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ここでは,この小さな町に何故これほど多くの外国人が集まるようになったのかを学ぶことができます。

特筆しなければならないのは,この町に集まってきたのは普通のブラジル人ではなく,かつてブラジルへ移住した日系人たちの子孫であるということです。

90年代に入った頃,混迷するブラジル経済のなかで家計を支えるため,多くの日系人が職を求めて祖国日本へやってきました。これは日系人の間で「デカセギ」と呼ばれています。
しかし来日した日系人たちは程なくして,親の母国である日本は自分にとっての母国ではなかったことを知ることになります。ブラジル人として育った日系2世は,慣習の違いや差別,または日本政府の政策や国際情勢にも翻弄されていったのです。
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大泉町には富士重や松下などの工場があり,バブル期の人手不足下で日系人の就労が期待されたため,この町に日系人が集まるようになりました。
リーマンショックや東日本大震災などで増減しつつも,20年以上かけて日系ブラジル人の文化が根付き,近年ではネパール系やベトナム系などニューカマーの文化も流れ込んでいます。ときには衝突しつつも,試行錯誤しながらインターナショナルな文化が形成されつつあるようです。
将来的に外国人の増加が想定されている我が国において,どのように多文化共生を成していくのかという課題へのヒントが,この小さな町にはあるのかもしれません。

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応対してくれた資料館のおばちゃんは,30年前に来日した日系2世とのこと。
最初は普通の日本人だと思って話していたのですが,少し違和感があって,失礼を承知で出自をお伺いしました。今でも,日本語よりポルトガル語で話すほうが楽なんだそう。
一度ブラジルに帰ったけど,やっぱり日本での暮らしのほうがいいから戻ってきちゃったのよ,と教えてくださいました。
日系コミュニティの近況など色々雑談しながらお話を伺いました。最近ではコロナウイルスにより,ブラジルに帰省できなくなったり日本に戻ってこれなくなったりと,日系人の生活にも大きな影響が出ているそうです。
町の地図をいただき,礼を言ってお別れ。
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続いて訪ねたのは,「スペール・メルカド・タカラ」。
スペール・メルカドがスーパーマーケット。入るや否や,異国の匂いが鼻に広がります。
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冷凍庫にはブラジル人が祝い事で使う子豚一頭(26000JPY)。
肉などの加工食品のみならず,ジュースやパスタ,お菓子に至るまでブラジル直送で現地の品々が売られております。
私たちと全く変わらない見た目のおじさんが,奥さんと異国の言葉で喋りながらショッピングを楽しんでいるさまは,正直言って違和感を抱かずにはいられないものです。
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こちらはタカラに入居している日系人向けインターネット回線会社のオフィス。
日本語が全く無いので思わず写真を撮りました。この国にいながら,自分たちがアウェーになる場所などなかなかありません。


昼ごはんは,おばちゃんもオススメしてくれた「レストラン・ブラジル」。
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日系人のオーナーが腕をふるうブラジル料理専門店です。孤独のグルメでも紹介されたとか。
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私が頼んだのはブラジルの定番ステーキ「COMERCIAL(コメルシャル)」。
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友人はここぞとばかりにシュラスコ頼んでました。

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私が日系人の歩みに興味を持ったのは,NHKが半世紀に渡って日系移民らの人生を追い続けたドキュメンタリー「乗船名簿」シリーズがきっかけでした。横浜港にある海外移住資料館にも何度か足を運んだことがあります。

今回ようやく大泉町を訪ねられたのは遅すぎるくらいで,もっと早く来るべきだったと後悔しきりでした。そして,私たちはもっと日系移民の歴史を学ぶべきだとの思いがより強くなりました。
貧しさゆえに送り出した同胞を,豊かになると記憶から消したのです。人手が足りなくなると都合よく労働力として呼び戻すも,日本人と同等には扱わなかったのです。

日系人の歴史も私たちの歴史の大切な一部分なのではないか。
大泉に来て,そんなことを感じました。

日系移民について学べる施設

日本定住資料館
住所:大泉町西小泉4-11-22
開館日:平日8:30~17:30,日曜日10:00~17:00
URL:https://www.oizumimachi-kankoukyoukai.jp/index/

JICA 海外移住資料館
住所:神奈川県横浜市中区新港2丁目3−1
開館日:火曜日~日曜日10:00~18:00
URL:https://www.jica.go.jp/jomm/index.html

父島での滞在は3日間。
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島を北から南へ見て回ったのはもちろんのこと,シーカヤックを漕いで海面から夕日を眺めるツアーとかにも参加しました。本当にどこでも海がきれいで,日が暮れても海底まで見通せたりします。

(前回の記事↓)
 

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さて,今回お世話になった宿は二見港沿いの奥村地区にあるパット・イン
父島ではかなり新しいホテルです。
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めちゃくちゃいい部屋でしたね。
父島で泊まる宿は,平成の天皇陛下が小笠原行幸に際して宿泊されたホテルホライズンか,このパットインのどちらかにしようと決めていました。

前の記事において,父島は欧米から来た捕鯨船の補給基地として使われていたという話をしましたが,当時無人島だった父島に定住を始めた欧米系島民が5人おり,そのうちの一人がナサニエル・セーボレーというアメリカ出身の人物になります。
そもそもパットインのある奥村地区にはヤンキータウンという別名があり,これはかつて欧米系島民が住んでいたことに由来します。
しかして,セーボレーもとい瀬堀さん一家が先祖代々引き継いだ土地にオープンさせたのがパットインということです。
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大村集落には,今も米軍統治時代に建てられたセーボレーさんの家があります(許可をいただいて撮影)。返還前に建てられた家屋は今となっては非常に貴重なものだということです。
戦後,小笠原諸島は日本の統治から離れたわけですが,当初は欧米系島民の末裔だけが帰島を許されました。米国は小笠原諸島を日本の内地とは別の文化圏だと認識していた,ということを示しています。
しかし,旧島民のアメリカ国務省への陳情などが奏功し,戦後23年を経て日本へ返還され,一昨年返還50年を迎えたというわけです。内地でも築50年を超える建物など多くはなく,ここ小笠原でも珍しいということですね。
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大村集落の中に立つ聖ジョージ教会。
小笠原諸島が米国から返還される直前に建てられたもので,今も同じ建物が維持されています。碑文には「米国海軍からボニン諸島の軍人と民間人に捧ぐ」と書いてありました。
ちなみに,この教会の牧師は小笠原愛作さんという方なのですが,旧名がアイザック・ゴンザレスといい,欧米系島民の末裔の一人とのこと。お父上が南太平洋へ行った折,覚えて持ち帰ってきた民俗舞踊が,今では「南洋踊り」として小笠原固有の文化となり,東京都の無形文化財に登録されています。

ヒストリーツアーに参加する

父島最終日。
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パットインの一階はレストランになっていて,瀬堀家のお母さん手作りの朝食を頂くことができます。
内地から立派なスイカが届いたらしく,有り難くご馳走になってしまいました。

船は午後に出港なのですが,午前の時間を使ってホテルが開催しているヒステリーツアーに参加することにしました。
ツアーでは,セーボレー家末裔である瀬堀さんの案内で,日本の中でも唯一無二の歴史を持つ小笠原について学ぶことができます。
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返還後の写真集を持って高台に登り,大村集落の今昔を比較したり。
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米軍統治下の小学校,ラドフォード提督学校の跡地に行ってみると,国旗掲揚台が残っていたり。
帰島を許された欧米系島民の子女は,ここで英語を学び,返還前はグアムの高校に進学していたようです。グアムに進学した世代かどうかで,英語能力や帰属意識などにおいて世代間の断絶があるらしいです。

現在の小笠原諸島は,欧米系島民の末裔(1割),八丈島などから戦前移住した旧島民の末裔(2割),返還後小笠原に惹かれて内地から移住した新島民(7割)から構成されており,戦前は日本の委任統治領であった南太平洋の島々との交流も盛んであったことから,色々な文化が混ざり合っています。
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瀬堀家所有の釣り船を見せていただきました。
片側に浮きのついた見慣れない形の船はアウトリガーカヌーと呼ばれ,南洋から持ち込まれたものが起源と言われています。
小笠原の民謡にも「丸木舟」というものがあります。
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地名においても,キリバスからの移住者の名前に由来すると言われるコペペビーチ,Mulberryの当て字で名付けられた円縁湾など,歴史の特異性を見ることができます。
現在では使われていませんが,二見湾,大村集落など,主要な地名にも英語名が存在していました。
欧米系島民の上の世代では英語を母語とする人々もおり,八丈方言と英語の混ざった独特なクレオール言語が話されていました。
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皆さんどうですか?
小笠原諸島には,単に南の島というだけでは語れない魅力があることを知りました。
東洋のガラパゴスとも呼ばれる特異な生態系も小笠原の魅力ですが,この隔絶された小さな島にこれほど多様なルーツを持つ人々が集まり,一つの文化を成していること。
ある意味で,人間の生態系こそ世界遺産なのではないかと思いました。
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いよいよ小笠原を去るとき。
多くの島民が港に集まり,おが丸の出港を見送ります。
挨拶は「いってらっしゃい」。
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何隻もの船がおが丸に並走する様子は,我々の心を打ちます。
船は一路北を目指して進み,夜食用に買った島寿司を名残惜しく食べ終わる頃には,夢から現実に引き戻されたような気分でした。



ところで

小笠原は「始まりと終わりがない島」と呼ばれることがあります。
小笠原で急患が発生した場合,自衛隊ヘリで硫黄島へ送り,飛行機に載せ替えて東京の病院へ搬送することになるため,基本的には健康な人間しか島に住むことはできません。妊娠や,急変の可能性がある疾患は,内地で医療を受けるのです。
しかし,故郷で子どもを生み,そして故郷で死にたいというのは人間誰しもの願いではないでしょうか。
他にも,小笠原高校の生徒がセンター試験を受験するとき10日もかけて内地へ行くことになるなど,小笠原特有の問題は枚挙にいとまがありません。
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小笠原は船で24時間かかるからこそ魅力的だと考える人は多く,私自身もそういった考えを持っていたこともありましたが,小笠原の魅力は距離の近さで失われるような類のものではないと確信しました。
むしろ,小笠原の魅力を支える人々の生命を守るという意味でも,やはり空港は必要なのではないでしょうか。

母島での一泊を終え,父島に戻ってきました。(前回の記事↓)



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ここは二見港から大村集落を貫く目抜き通り。
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集落に入ると,スーパーマーケットや土産屋,飲食店が軒を連ねています。
スーパーには内地から運んできたレトルト食品や生鮮食品に加え,小笠原で採れた野菜なども並んでいます。値段は内地より高いですね。

父島はこんなところ

集落の裏手に丘のような山があるので登ってみました。
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ここからは父島の大村集落を一望することができます。
この異国情緒ある街並みこそ,父島の魅力ではないかと考えます。南洋の趣があり,グアムやパラオと言われても違和感がなさそうでは。
道を行き交う人々も真っ黒に日焼けしていて,むしろ車が品川ナンバーであるほうに違和感あるくらいです。
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東京から約1000km南にある小笠原諸島。
亜熱帯性気候で,一度も大陸とつながったことがないため,固有の生態系が保たれています。
鳥と,鳥が運んできた植物の種や昆虫しかいないため,人間が持ち込んだネコや家畜を除けば四足動物は存在しないようです。
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小笠原の海の青さは”ボニンブルー”として有名で,イルカやクジラの生息する自然豊かな海です。
そもそも小笠原を指す”ボニン”とは,江戸時代に漂着した日本人が無人(ぶにん)島と呼んだことに起因しており,江戸末期頃から欧米から来た捕鯨船の中継基地として使われるようになって欧米にもその名が伝わりました。

父島近海にはウミガメも生息していて,いくつかのビーチは産卵場所にもなっています。
そんなウミガメの卵を保護して人工孵化させ,飼育している施設があったりしてですね…
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エサを支援金代わりに買ってカメに食わせるんですけど,向こうから寄ってくるんですよね。
昔クサガメを飼ってたことがあって,ちょっと思い出しましたね。
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で,そんな父島の自然豊かな海でも泳ぎたいなと思ってビーチを探していて,ここしかないと決めた境浦海岸。
よく見ると湾内に船が沈んでいるんですね。この船は濱江丸という貨物船で,第二次大戦末期に父島空襲で沈没し,そのまま残されているものです。
全然足はつかないところなんですが,泳げる距離なので近くまで行ってみたところ,魚たちの隠れ家になっていてエモエモでした。沈没船は男のロマンですね。
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戦争のイメージは少ない小笠原ですが,今も父島には多くの戦時遺構が残されています。
荒らされているものもあれば,夕日スポットとして観光客が絶えなくなっているトーチカもあります。父島は平地の少ない山がちな島ですが,戦時下に整備されたトンネルが今も現役だったりするようです。

さらに言うと,父島のさらに南には,あの硫黄島があります。戦後,故郷である硫黄島に帰ることができず,父島や母島に住み続けている人もいます。陽気な南の島でも,まだ戦争は終わっていないのかもしれません。
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夕刻,村営バスで訪ねたのは東京都最南端のバス停「小港海岸」。
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河口の景観がもはや内地とは全く違うんですよね。
これでも東京都なんですよ!!
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砂浜で足先まで海に浸かりながらオレンジ色に染まった空を眺めました。
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夜は寿司屋で島寿司や天ぷらをいただきました。
島寿司は醤油漬けにした刺し身を,ワサビの代わりにカラシで握ったもので,伊豆諸島の郷土料理として知られています。
筆者が初めて食べたのは八丈移民が開拓した沖縄県南大東島だったのですが,この寿司屋の大将の口からも南大東の地名が出てきたのでびっくりしました。

(続く)

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